信長革新・s1最上家リプレイ。その16。天下一統、為る。
前回。
http://nervousbreakdown.blog77.fc2.com/blog-entry-715.html
旧本願寺家臣団から、細川忠興、浅井長政、蒲生氏郷、下間頼廉を登用。
1598年春。
東日本に敵がいなくなったところで管領就任。
…ん?でも将軍っているのか?足利幕府って続いてるの?
む?早くも氏郷がゲホゲホ言ってる…坊主に使われて気苦労があったんだろうなぁ…。
昌幸を関東管領に任じ、新軍団設立。下間隊も設立。
む?大友から要請が。
「府内館を攻撃してくれ」
ううむ…そこは我が家が狙ってるのに…。着々と勢力を伸ばすなぁ、大友家。しかし断ることも出来ず承諾。九州駐留の伊達隊を向かわせる。
そして九州に向けて七尾からあらかた進発していった後、城の修復が進むも、まだ戦いの名残が生々しく残る城内の片隅で、義光の命を受けた正純、義、沼田らがそれを執行する。
裏切り者、那須・武田豊・蠣崎季・須田・山村・富田…処断。
その頃四国。
本願寺攻めに参加していなかった幸村は能島港攻略戦。
丁度港の防御を破壊し、丸裸になったところに入港する部隊が。かまわず騎馬アタックコンボをぶつけて、制圧。
さて…捕虜検分するか…って、なにしてんの?島津義弘??
もしかして最後に入港してきた部隊って…。なんという、飛んで火に入る夏の虫…。
逃げ出される前に、処断。島津豊久も処断。
府内館。
大内家が一部隊で攻めるが、鉄砲櫓に撃退される。
伊達隊は一撃加えただけで帰還。やる気無しw
そして大友からの要請期限が切れると同時に、北陸から転進してきた部隊で府内占領。大友には渡さないw
そのまま九州の島津領(東半分)を大友の手に渡る前に占領。
四国、島津から奪った安宅船で今治に突っ込む。いやぁ、安宅船って頑丈だなぁw
1599年夏。
一年を残していきなり大友が同盟破棄を申し出てくる。
まぁ仕方ないよね、東九州を抑えて大友の発展性を完全に封じ込めてるのが我が家だもんなー。
ここで三度目の包囲網。
ここまで来ると、巨象に立ち向かうハエを払う状態になります。織田、島津の連続攻撃も、もはや意味を持ちません。
そっちは無視して九州殲滅計画を続ける。
大友の本体は人吉に50000。しかし、もはや我が家の敵ではありません。立花隊の抵抗も虚しいところ。
当主大友宗麟は人吉で敗れた後、坊津にいた。
真田昌幸隊20000が激しく攻める中、義光が降伏勧告に赴き、調伏。
九州制覇、ここに為る。
1599年、坊津の宗麟説得の帰途、征夷大将軍推任を受ける。隅本で使者を迎える。
晴れて、敵対する織田・島津を朝敵として征伐することになる。
とは言っても、ここまで来ると戦力差がつきすぎてなぁ。
四国は既に今治を確保しているので、そこから織田湯築城攻め。
しかしまぁいくら落日とはいえ、織田軍は強いね。城に籠もった時の鉄砲の威力は半端じゃない。
家康隊は気がついたら2000切るまで減らされてるし。
兵が減った部隊は今治に撤退させてそこから再出撃させたけど、今治に用意した30000の予備兵がガッツリもってかれてる…
織田鉄砲隊と援軍に来た島津鉄砲隊の威力スゴス。
それでも今治の予備兵力を食い尽くして落城へ。
黒瀬城は鉄砲櫓武装か…こういう時はあれです。人質全解放。財政的に奴らを追い込みます。
鍋島直茂を呼び寄せ、将軍親征です。隅本から四国へ。
1601年、四国制覇。やっぱり長宗我部は弱かった…。
残りは姫路と岡山に。
ここでやることは、たまりに溜まった49名の織田捕虜を全解放♪
金銭終始が-80000近いナイスな状態にw
島津最後の城を攻めてると、山中鹿之助、加藤清正まで仕官を願い出てきたw うはw 織田軍崩壊しすぎwww
下津井に島津を追い込み勧告。島津家、滅亡。
1602年、幕府親征軍、最後の出陣。
姫路城に籠もる織田家家臣14人。
最盛期は150人を越えていた家臣団も、既にその姿は無く。
城攻めの最中にも浅野長政、母里が仕官に来る。なにか虚しい…。
戦法発動の際、城主信長を「老いぼれ」呼ばわりする幸村と政宗。時代は変わった。
ED。
重臣役:家康
茶室:義、北条景(なんで?w)、家康(一乗谷水攻め)、幸村(岸和田土竜攻め)、昌幸(一夜城)
ちょっと反省会。
今回の勝因は、織田との戦いの最初期に秀吉処断。
藤堂高虎、鈴木重、小早川隆景、大谷吉継、義昭将軍、秀長を捕獲して返さない期間が長かったあたりが勝因といえば勝因かもしれない。
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旧本願寺家臣団から、細川忠興、浅井長政、蒲生氏郷、下間頼廉を登用。
1598年春。
東日本に敵がいなくなったところで管領就任。
…ん?でも将軍っているのか?足利幕府って続いてるの?
む?早くも氏郷がゲホゲホ言ってる…坊主に使われて気苦労があったんだろうなぁ…。
昌幸を関東管領に任じ、新軍団設立。下間隊も設立。
む?大友から要請が。
「府内館を攻撃してくれ」
ううむ…そこは我が家が狙ってるのに…。着々と勢力を伸ばすなぁ、大友家。しかし断ることも出来ず承諾。九州駐留の伊達隊を向かわせる。
そして九州に向けて七尾からあらかた進発していった後、城の修復が進むも、まだ戦いの名残が生々しく残る城内の片隅で、義光の命を受けた正純、義、沼田らがそれを執行する。
裏切り者、那須・武田豊・蠣崎季・須田・山村・富田…処断。
その頃四国。
本願寺攻めに参加していなかった幸村は能島港攻略戦。
丁度港の防御を破壊し、丸裸になったところに入港する部隊が。かまわず騎馬アタックコンボをぶつけて、制圧。
さて…捕虜検分するか…って、なにしてんの?島津義弘??
もしかして最後に入港してきた部隊って…。なんという、飛んで火に入る夏の虫…。
逃げ出される前に、処断。島津豊久も処断。
府内館。
大内家が一部隊で攻めるが、鉄砲櫓に撃退される。
伊達隊は一撃加えただけで帰還。やる気無しw
そして大友からの要請期限が切れると同時に、北陸から転進してきた部隊で府内占領。大友には渡さないw
そのまま九州の島津領(東半分)を大友の手に渡る前に占領。
四国、島津から奪った安宅船で今治に突っ込む。いやぁ、安宅船って頑丈だなぁw
1599年夏。
一年を残していきなり大友が同盟破棄を申し出てくる。
まぁ仕方ないよね、東九州を抑えて大友の発展性を完全に封じ込めてるのが我が家だもんなー。
ここで三度目の包囲網。
ここまで来ると、巨象に立ち向かうハエを払う状態になります。織田、島津の連続攻撃も、もはや意味を持ちません。
そっちは無視して九州殲滅計画を続ける。
大友の本体は人吉に50000。しかし、もはや我が家の敵ではありません。立花隊の抵抗も虚しいところ。
当主大友宗麟は人吉で敗れた後、坊津にいた。
真田昌幸隊20000が激しく攻める中、義光が降伏勧告に赴き、調伏。
九州制覇、ここに為る。
1599年、坊津の宗麟説得の帰途、征夷大将軍推任を受ける。隅本で使者を迎える。
晴れて、敵対する織田・島津を朝敵として征伐することになる。
とは言っても、ここまで来ると戦力差がつきすぎてなぁ。
四国は既に今治を確保しているので、そこから織田湯築城攻め。
しかしまぁいくら落日とはいえ、織田軍は強いね。城に籠もった時の鉄砲の威力は半端じゃない。
家康隊は気がついたら2000切るまで減らされてるし。
兵が減った部隊は今治に撤退させてそこから再出撃させたけど、今治に用意した30000の予備兵がガッツリもってかれてる…
織田鉄砲隊と援軍に来た島津鉄砲隊の威力スゴス。
それでも今治の予備兵力を食い尽くして落城へ。
黒瀬城は鉄砲櫓武装か…こういう時はあれです。人質全解放。財政的に奴らを追い込みます。
鍋島直茂を呼び寄せ、将軍親征です。隅本から四国へ。
1601年、四国制覇。やっぱり長宗我部は弱かった…。
残りは姫路と岡山に。
ここでやることは、たまりに溜まった49名の織田捕虜を全解放♪
金銭終始が-80000近いナイスな状態にw
島津最後の城を攻めてると、山中鹿之助、加藤清正まで仕官を願い出てきたw うはw 織田軍崩壊しすぎwww
下津井に島津を追い込み勧告。島津家、滅亡。
1602年、幕府親征軍、最後の出陣。
姫路城に籠もる織田家家臣14人。
最盛期は150人を越えていた家臣団も、既にその姿は無く。
城攻めの最中にも浅野長政、母里が仕官に来る。なにか虚しい…。
戦法発動の際、城主信長を「老いぼれ」呼ばわりする幸村と政宗。時代は変わった。
ED。
重臣役:家康
茶室:義、北条景(なんで?w)、家康(一乗谷水攻め)、幸村(岸和田土竜攻め)、昌幸(一夜城)
ちょっと反省会。
今回の勝因は、織田との戦いの最初期に秀吉処断。
藤堂高虎、鈴木重、小早川隆景、大谷吉継、義昭将軍、秀長を捕獲して返さない期間が長かったあたりが勝因といえば勝因かもしれない。
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